過密
ひとつトピックを間に挟んだが、連休の話に戻ろう。そもそも、3日の観劇イベントを目的に、3日間の予定を組んだのだが、その一日目が記念日の食事であり、二日目はフェルメール展を観ることにしていた。すると旨いツアーがあるもので、往復の航空券とフェルメール展の入場券と、東京メトロの2日間無料チケットとホテル一泊分がついた割安のツアーを申し込んだわけだ。
フェルメール展は、昨年、六本木の新東京美術館で見ていただけに、今回の作品もはずせない、という思いがあった。
ただ、私個人は、といえば、はるか昔に見たレーピンであるとか、印象派のピサロであるとか、ピカソの青の時代や赤い時代、そして、マドリードでピカソと並んでいるダリなどに惹かれるものの、フェルメールにはさほど惹かれるものがないのである。
ほとんどが平凡な女性の俯き加減の絵。強く画面の向こうからこちらを見据えるまなざしはほとんどなく、見るものの気持ちを和らげる柔らかさも特に持たず、どこといって特徴のない世界なのである。
ただ・・・、ただ、強いてあげるなら、壁に掛かった絵の中の、「黄」と「青」の色の強さが常に強烈なのである。こういう作家は確かに珍しい。その「黄」と「青」を見に行くのだとすると、この人はどういう絵描きなのだろう?
はるか以前、新聞の夕刊の見開きページなどに、よく絵画の通信講座の案内があり、そこで“テスト”として用いられていたのが、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』の絵であった。そして、その構図が、いかにも絵画における「手本」として取り上げられていたのである。
それは、フェルメールが絵画の名人、名手と言わんばかりではないか。
そこに何も感じるものを持たない私には、フェルメールが名人だなどとは到底思えないのだが・・・。
それでも、フェルメール見たさに集まる人は数え切れない。美術館には珍しく、9時開館という条件下で、9時半に到着したなら、しかも期間はまだひと月以上も残っているというなら、普通なら余裕のはずなのに、入場まで40分待ちなのである。そして、7~8人一列になってず~っと、人が並んでいるのだ。
なんなのだ?この東京という街は?相も変わらず、いつも人が溢れている。全くの過密状態だ。絵を目の前でゆっくりみることができない。ようやく脇から見るのが最も近い。遠くから、「黄」と「青」の色を見るのには苦労しないが、これは、絵をゆっくり鑑賞する環境ではない。
私は、中学生時代に、満員電車に毎日揺られるのが嫌になって東京を出ることを考え始めた。時には、満員電車の窓ガラスが割れて怪我する人がいて、時には、倒れた女子学生を助けてあげる人がいない状況を目の当たりにして、ますます、そんな気持ちが強くなっていった。そして、札幌に行って、就職して、出張で東京に来て、場所によってはますます混雑度合いが激しく、全く身動きの取れない車両すらあった。それでもどうしてみんなこの街に留まるのだろう?
そういう動きが、展覧会や何かのイベントに際しても、覿面に現われる。どこにいっても過密状態。このことの方が、絵画展よりも哀しく響いてくる。
皆、どうしてこの混雑をなんとも思わないのだろうか?神経が麻痺してしまったのだろうか?
その麻痺しているかもしれない神経で、フェルメールはわかるのだろうか?

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